話しかけたいな、とずっと前から思っている子がいた。
話しかけないまま、私は高校3年生になってしまったけれど。
最初に会った一年生の春、気恥しさや好奇心のさざ波がひそめきあう新学期の教室で、自己紹介のときに教壇に立った彼女は、そのころから私たちとは何かが違った。
言っていることは、自分の名前に、趣味、それから簡素な「よろしく」の言葉だけ。
だけど、ほわほわと柔らかなベールに包まれて夢見心地だった教室を、現実に戻すかのように通る、彼女の揺るがない声色は、
私たちの目を覚まさせるには威力がありすぎたのである。
ああ、この人は、強く生きていける人。
だれもがそう、思わずにはいられなかった。
守られて、自分のやりたいことをあらかじめ用意されてきたような、ヒナのような私たちとは違う。
彼女は、自分で用意してきた人間だ。
話をしてみたい。私に向かって、おまえは甘い世界で生きてきたのだと、指摘してほしい。
見せつけてほしい。
けれど強い人と対峙することは同時に、ずっと目をそらしてきた自分の弱さを暴かれることでもある。
どうか、どうか私を無視して。
私は、自分の世界を否定してほしいと思いながら、それが恐ろしくて目をそむけたのだ。
視界に入らなくても、在るものは、そのまま在り続けるというのに。
学年が上がるにつれ、やはり彼女の「非凡」さは目立つようになっていた。
別に生徒会長になったとか、地位的なことではない。部活では、リーダー的存在のようだけど、
もっと根本的な、「生命力」の「非凡」さ。
例えば、学祭でクラス内が揉め、意地になっている諸悪の根源である室長に対し、
冷静かつ論拠立てて、当たり前のことを当たり前のように言ってのけた。
例えば、進路のことで担任と意見が食い違ったときに、担任のメンツを落とさないよう、
それでも芯の通った声で、自分の人生について自分がこうだと思ったのだから、見守ってほしいと。
言えない、私だったらそんなこと。
クラスのいざこざは遠巻きに眺めて、周りの意見に従うし、
担任との齟齬が生じたら、おそらく傷ついて、悲劇の主人公になって終わり、だったろう。
私だって、と何度も考えた。
私だって、自分の意見を伝えるくらい、できる。
私だって、何も考えずにここまで来たわけではない。
私だって、何が最善かを見渡す能力くらいなら、ある。
けれど彼女は私と違って。
意見を伝えるのなら、説得力と根拠と気配りを以て。
将来を考えるのなら、自分に必要なものをきちんとはかって。
最善を探すのなら、それを仕舞っておくことはせず、きちんと外に表現して。
私、3年間、ずっとあなたのこと見てきたよ。
揺るがない瞳で相手を見つめると、見つめられた相手がすっかり自信喪失しちゃって、
まともに意見の交換ができない場面を、何度も見たよ。
3年経ってもヒナに毛が生えたくらいの私たちを見ても、憐れんだり馬鹿にしたり、悲しそうな顔をしないで、
こちらが言おうとすることを、できるだけ汲み取ろうとしてくれる配慮も知っているよ。
友達と楽しくただただおしゃべりしてるとき、とても楽しそうだし、私たちと同じ高校生なんだって実感するよ。
いま、このとき、そばに居てほしくないって、知っているよ。
それでも、夏休みの中庭、背の高い木の陰になっているところで、一人泣いているあなたを見て、
私は見なかったふりはできないと思った。
晴れ渡った空、離れたグラウンドから青春の声がする。
あなたに陰をつくる木々からは、夏の終わりの蝉が鳴き声を落とす。
あなたは、色濃い土に、声もなく涙をしぼる。
渡り廊下を立ち止まった私の気配に、あなたはもう気が付いている。
どうして見つけたのが私だったのだろう。
もし、男の子だったら、こういうとき彼女を守れるのではないか。
無理だ。
彼らもまた、私のように、彼女を「自分とは違うのだ」と遠ざけた者だ。
どうして彼女を守れよう。
彼女は「非凡」ではない。ただ人よりも多く考え、多く配慮し、多く言葉を知っているだけ。
彼女を一人にしたのは私たち。
いつかあなたのようにならなくてはならない、そう思って目をそらした私たち。
彼女は一足先に、おとなのふりをしなくてはならなかった、それだけで。
あなたが何を望むのか、誰も思いつかないようだった。
あなたが何によろこび、かなしむのか、誰も知ろうとはしなかった。
あなたは私たちがいなくても生きていけるのだと、押し付けて。
おとなの役割を、あなたに押し付けて。
声をあげて、泣いてもいいんだよ。
彼女のかくれんぼする木の幹の反対側に、背中をあずけると、彼女は泣くのをやめようとした。
私はめずらしくポケットに入ってたティッシュだけ彼女に渡して、ごめんね、と謝った。
何に対する謝罪なのか、あなたにはわからなかったと思うけどね。
あなたが少しだけ苦笑した気がするから、まあいいの。
抱きしめてあげたら、よかっただろうか。
泣くときは、自分の心の叫びを、自分ひとりで受け止めなければならない。
痛切な、心の独り言を、身体で実感しなければならない。
そういうとき、温もりは鎮痛剤の役目を果たす。
でもそれでよいのだろうか。
痛みを和らげてしまって、この痛みを乗り越えたと言えるだろうか。
ごまかしなんて、少ししか持たない。
曖昧に濁された感情は再び、身体を引き裂く勢いでぶり返すだろう。
そのとき求めた温もりがなかったら、今度こそ本当に千切れてしまわないだろうか。
同じ夏の中、蝉の声を聴くこと。
それと、人肌に温まったティッシュ。
私があなたに分けられる精一杯のぬくもり。
彼女は確かに強いかもしれない。
私たちにはない、確かな生命力にあふれている。
でも、「平凡」の人が持ってる「気にしない」という強さを、彼女は持たない。
今日は、もう黙ってあなたのそばに、いるよ。
今度教室で会っても、話しかけれるかはわからないけど、がんばってみよう。
私が3年間、あなたを目で追っていたことなんて、知らないでしょう。
あなたの強さは本当にまぶしくて、弱さに気がつけなくて、
むしろ途中から、私はあなたの強さからより、弱さから目をそらしていた気がする。
あなたも同じ。
だから、どうか、私を。
私にしかない強さを、あなたの視界へ、招いてください。
たぶん、私の強さは、あなたの弱さの一部。
今は、黙ってそばに居てあげるから。
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